2025年3月15日タワマン建設に揺れる高島平第7小学校の棟おろし式に参加してきました。

2025年3月15日タワマン建設に揺れるの高島平第7小学校の棟おろし式に参加してきました。都市開発の推進が生む波紋や歪みを肌で感じてきましたのでレポートさせて頂きます。

場所

棟おろし式の場所はタワマン建設で揺れる高島第7小学校になります。

イベント

棟おろし式のと同時開催でスマイルキッズパークというイベントが開催されていました。

ステージでは地域の方々が日頃の活動の成果を披露されていました。高校生のダンスかっこいい!

出店もいろいろと出ていました。

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ストライダーのコースやダブルダッチ、また、ドローンの体験会(1回千円)なんかもありました。

棟下式

棟下式はイベントの奥の小学校の校舎で行われていました。校舎には高7小にゆかりのある多くの方が集い、最後の姿を目に焼き付けるかのように名残惜しそうに教室や廊下を眺めていました。

撮影かとのことでしたので、高7小の最後の姿の写真にとどめてみました。

建物外周

建物の外周はこのような感じです。廃校したのは2007年ですので今から18年前になります。同時から外装についてはメンテナンスも最低限にしか行っていないでしょうから、だいぶ汚れが溜まっている感じです。

現在ごみ置き場ななっている場所です。保健室にあったのではないかと思われる体重計がありました。きっと多くの子どもたちの成長を計量してきたのではないでしょうか。

給食室も中が見えました。3-6組という文字が見えます。高島平団地の入居開始から暫くして起こったベビーブームからの小学生ブームは凄まじく、本来は高島平第五小学校が団地の児童を受け止める予定だったのですが、児童があふれかえり、結果として高島平第7小学校が開設されました(さらにいえばで、高島平第6小学校にも1丁目側の団地の児童が通っていたりもしました)。

校舎の裏側は18年間の風雨にさらされた跡がより克明に記録されています。

この小学高低学年の子供しか入れなさそうな入り口は一体何なのでしょうか。そして、右と左で別の場所に通じるのでしょうか。

誰も登らなくなった階段は砂やほこりが積もり、取り壊し前の建物の寂しさを感じます。

秘密の通路がありました。どうやら中庭に続く通路みたいです。きっとかつてはこの細い通路の向こう側から子どもたちの笑い声が聞こえたのでしょうが、今はひっそりとしています。

中庭

中庭はこんな感じです。ジャングルジムがあったりして、子どもたちが遊べるようになっています。

建物の西側には3丁目の団地が見えます。向こう側はタワマン計画には今のところ入っていないようで、あくまでもタワマン計画は高島平駅周辺のアクセスが良い地域ということになります。逆に言えば、三丁目は再開発の波から取り残されていってしまうのかもしれません。

タワマンかできればそこには新しい家庭が住み始め、子どもは高島平第5小学校に通うことになると思います。タワマン世帯と団地世帯の子どもたちが混在する環境は価値観や生活水準などもそうですが、現在まき起こっている感情の渦をがどう収束するかにもかかっています。

校舎の取り壊しは、現在行われているパブコメが終わり2025年6月に都市計画が決定・告示され、2026年の夏ごろからスタートする見込みです。そこから解体には2年程度の時間を要する見込みですが、URが建設業者を選定し、いつから工事を始めるのかは不透明です。早ければ2028年後半から2029年前半となる想定ですが、想定通りに経済合理的なビジネスプランはまかり通らないかもしれません。

結局のところ、高島平の各自治体や商店街、また、地域住民の想いをどこまで受け止め、どのような落としどころを見出すのかにかかっているのだと感じます。

長期政権を引いていた坂本区長は現在5期目であり、フィナーレを飾るかのごとく、次々とタワマンを含む大型の都市開発をガシガシと推進しています。しかし、そうした推進力は得てして波紋や歪を生むかもしれません。

そうした負の側面をどれだけ区政の後継者、そして、URを含む関係者が受け止められるかはよくよく注視していかなければならないと一市民として感じております。

校舎内

校舎に入ると「ありがとう高7小、さようなら高7小」とかかれたモニュメントが掲示されていました。いろいろな方々の想いがこもった棟下式だと感じました。

これが校舎案内図になります。棟下式後はあまり利用されることもなくなるのでしょう。

高7小の記念品が飾ってありました。高7小のマークは児童が住む10棟の団地を表しているのだと初めて知りました。まさに団地とともにでき、団地とともに幕を閉じた学校が高7小なのですね。

ちなみに、高島平一帯の公立校の校章は高島家や徳丸田んぼ、団地等がモチーフになっていることが多いそうです。

歴代の校長先生です。

高7小は1979年に創立し、2007年の閉校となりますので、わずか28年の歴史なのですね。歴代の校長も8代しかいないのもそういう事情があったためなのですね。

開講当時の様子を知る貴重な資料がありました。

もともとは高島平は団地ができる前は徳丸田んぼであり、その前は徳丸ヶ原として砲術の練習場でした。

天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で高島秋帆が日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ったことが由来となり、徳丸ヶ原は高島平と呼ばれるようになったそうです。

ちなみに、高島平の地名が名付けられたのは団地が建設されつつあった1968年のことと、かなり最近なのですね。

かつての徳丸田んぼという土地の記憶を呼び覚ますように、高7小では高7米というお米栽培が行われていました。すてきですね。

誰もいない廊下をわたり、2年1組の教室に入ってみます。

教室はガランとしていますが、耳をすませばかつての子どもたちの賑やかな声が聞こえてきそうです。

卒業生の一行のお話をお伺わせていただいたのですが、配膳室にはかつては給食がズラッと並び、子どもたちがそれをせっせと配膳台で運んでいたそうです。当時は大きく見えた部屋も、今は小さな小部屋に見えたそうです。

昔の高島平

役立ちリンク

棟おろし式のページになります。

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