成増のキーパーソンにインタビュー:坂本あずまおさん「前区議会議長に聞く“板橋区議16年間の振り返り”と“成増と政治”」

今回は成増のキーパーソンにインタビューという企画で、前区議会議長で成増ヶ丘小学校のPTA会長を務められている坂本あずまおさんにインタビューをさせて頂きました。

「立志編」と「政治編」に分け、坂本あずまおさんの生い立ちや政治家としてのキャリアまで、成増政治村の歴史を織り交ぜながら記事にいたしました。

坂本あずまお立志編

坂本あずまお立志編では、坂本あずまおさんの名前の由来やトルコとマンチェスターでの8年間の留学生活について記していきます。

■1978年東生(あずまお)生誕

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坂本あずまおさん(以下、あずまおさん)は1978年に成増で産まれました。

あずまおさんの名前は漢字では「東生(あずまお)」と書きます。これは、「東から日が昇り、明るくまぶしい太陽が降り注ぐような一日を過ごし、生きていく」という思いを込めて両親が付けてくれた名前だそうです。
ちなみに、「東」は母方の祖父の故郷、千葉県東庄町にある東大社(とうたいしゃ)から一字を取ったそうです。

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5歳からは古武道美剣体動体道(みつるぎたいどう)を習い始め(現在は師範代)、また、成増里神楽のメンバーとして小学一年生の初舞台以降は地域の慶事や正月等に獅子舞の演舞を行ったりと伝統文化にも幼少期から触れてきました。

幼稚園は三園幼稚園、小学校は成増ヶ丘小学校に進学されます(現在あずまおさんは母校である成増ヶ丘小学校のPTA会長を務められています)。

■成増選挙村での2人の政治家との出会い

成増は選挙に対して非常に熱心な土地柄で「成増選挙村」と呼称されることもあるそうです。坂本あずまおさんの幼少期である1980年代において成増には2人の著名な政治家がいらっしゃったそうです。

1人は「田中晃三氏」、もう一人は「坂本清氏」です。

田中晃三氏(あずまおさんは「こうぞうさん」と呼んでいたそうです)は埼玉県の加須市に産まれ、京都大学を卒業後に板橋区議会議員を3期(1971‐1981年)の後、東京都都議会議員に板橋区選挙区に出馬され東京都議会議員を6期(1981‐2005年)を務められました。1997年からは第37代東京都都議会議長に就任し、名実ともに板橋を代表する政治家の1人でした。

坂本清氏(あずまおさんは「きよしさん」と呼んでいたそうです)は板橋区の区議会議員を(60代の区議任期中に死去)人生を板橋区政に捧げた方でした(あずまおさんの父親が後援会長を務められていました)。なお、坂本清さんは現区長坂本健氏の父親であり、親子二代で板橋の政治に貢献される政治家一家です。

こうした、「こうぞうさん」と「きよしさん」という2人の板橋を代表する政治家に囲まれて過ごしたあずまおさんは、幼少期から政治というものを身近に感じ、自然と政治への意識が芽生えていったのかもしれません。

■中学3年生でのトルコとの出会い

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あずまおさんは成増ヶ丘小学校を経て早稲田中学校へ進学しました(赤塚第二中学校に進学しなかったことで成増を捨てたと言われたこともあったそうです💦ただ、当時の赤二中はかなり荒れていたので進学を躊躇される方も多かったとか💦)。

中学校三年生の時に両親がトルコ・エジプト旅行に連れて行ってくれたそうです。この旅行が後のあずまおさんの人生を大きく変えることになります。

日本からは遠く離れた異国の地は、言葉が通じないばかりか、風土や文化も全く異なり多感なあずまお青年に衝撃を与えたそうです。イスラム教に根差した生活、また、死生観のようなものに触れる中で日本にはない異質さを感じました。

その一方で、海に面しており四季のあるトルコに対してどことなく日本にも近しい同郷の匂いや風の薫り、そしてあわれみといった情念を感じたそうです(トルコはとても親日的な国だったりもします)。

こうした経験から、多感なあずまおさんはトルコに対して「異質でありながらどこか懐かしい」と強く惹かれました。当時あずまお青年は「いつかは海外留学してみたい」という漠然とした想いを抱いていたそうですが、そうした想いはトルコ旅行を通じて「絶対にこの街(イスタンブール)に住む」という決意に変わったそうです(突然のご決断にご両親は驚かれたそうです)。

■イスタンブールとマンチェスターでの8年間

〇イスタンブールでのテロと「死生観」

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早稲田高校を卒業したあずまおさんは1997年6月に単身トルコに移住します。出発前に現地の大学受験の手配、また、簡単なあいさつ程度のトルコ語は身に着けるなど最低限の準備はしましたが、出発時点で住む場所も決めておらず、その時その時で出会った方々に助けていただく綱渡りな留学でした。

一見すると異国の地に十分な準備もなく青年が単身移住するというのは無謀なようにも思えますが、「迷いと悟りは背中合わせ、私にもそんな苦労があったかねと思えば、どんなことでも乗り越えられるよ。」という祖父からの助言もあり、何とかなるだろうというある種の達観があずまおさんにはあったそうです。

留学先はトルコの最大都市イスタンブールにある国立ボアジチ大学英文学科でした。大学時代は学業に励むとともに、様々な異文化にも触れたそうです。特にはじめの一、二年目には、それまでの東京での生活には縁のなかった異文化や生活習慣の相違に随分と影響を受けるとともに、一風変わった仲間たちにも出会うことが出来たそうです。
※詳細についてはあずまおさんの「またたび日記〜東生旅日記トルコ編〜」をご参照ください。

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トルコ生活の4年間では様々な経験をされましたが、その中でも印象的だったことの一つがだったのが「テロ」でした。留学時代のトルコでは、クルド人独立派組織PKK(イラン系山岳民族のクルド人の独立国家建設を目指す組織)とトルコ政府軍の武力衝突が繰り広げられていました。滞在後半にはチェチェンの独立紛争に関わるテロもありました。

当時は頻繁にPKKによるテロ行為が繰り返されており、あずまおさんもイスタンブール市内で幾度かテロに遭遇しました。役所の爆発、旧市街観光地での爆弾、自宅近くカフェの爆破、英国系銀行HSBCの爆破、警察の詰め所への自爆テロ。テロ行為自体は決して許されるものではないのですが、こうしたテロ行為の背景にある社会的な問題をたどっていくと「テロさえせねばならぬほど苦しい我等に気づいてくれ!」という訴えが聞こえてきそうで、単純にテロ行為を行うPKKを怨むことができなくなってきたそうです。

こうしたトルコでの経験から、あずまおさんは「テロに遭遇し誰にも分からず死んでしまったらどうなるのだろう」というリアルな死への恐怖、そしてその対極にある生を強く意識したそうです。加えて、死と隣り合わせの社会にありながらトルコの市民は家族と共に笑顔で日常を過ごす姿を見て「幸せとは何だろうか」という幸福感に想いを巡らせるようになりました。

〇マンチェスターでの政治学と「国土への想い」

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トルコでの4年間の大学生時代を経て、あずまおさんは「国家」について関心を持つようになりました。「何が国家であり、何が民族を形成し、そして海や大地や森の為す国土とは何なのか」という問いに対する答えを探すためにさらなる比較対象を求めて英国に留学をすることを決意しました。

留学先はイギリス北西部に位置するマンチェスターでした。
※マンチェスターは第一次産業革命で中心的な役割を果たしたことで有名です。19世紀は紡績業が盛んな工業都市でした。20世紀に入り紡績業は衰退してしまいましたが、現在でもイギリス北部の主要都市であり、マンチャエスター・シティやマンチェスター・ユナイテッドに代表されるようにスポーツや文化・芸術に秀でた都市です。

マンチェスターはトルコとは異なり、「綺麗に制度設計された社会デザイン」を持っていました。行政サービスもトルコでは自ら見つけ出さなければいけなかったのですが、マンチェスターでは聞けばすぐに教えてくれたそうです。

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Amazon.co.jp: 大地の歩き方: 社会を読み解く地図のちから : 坂本東生: 本

あずまおさんはマンチェスターメトロポリタン大学で政治学を専攻しました。現代国際政治やEUについても学びましたが、おもに17世紀頃のNation-State (国民国家論)について勉学に励まれたそうです。様々な民族的なバックグラウンドを持つ人々が住む欧州において誕生したNation-State (国民国家論)について研究を勧める中で、あずまおさんは国土(大地)に着目し、人が住む土地に根差した政治の重要性を感じました(こうした想いが現在のアズマップに代表される地図と政治の融合に繋がっているそうです)。

坂本あずまお政治編

■成増政治村の混沌の中で

坂本あずまおさんが帰国されたのは平成16年(2004年)の事でした。

当時の成増政治村は混沌としていました。成増を代表する政治家であった田中晃三氏と坂本清氏が相次いで引退したためです。

まず、現役板橋区議会議員だった坂本清氏がご逝去されました。当時ご子息の坂本健さん(現区長)は区議選には出馬されない意向であったため、急遽候補者探しが行われ下村博文衆議院議員の秘書を務められていた河野ゆうき氏が出馬し当選をされました。2003年のことです。

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その一年後に田中晃三氏(都議会議員)が引退を表明しました。田中晃三氏の後継としてまず候補にあがったのが区議会議員の河野ゆうき氏でした。しかし、その後に坂本健氏(現区長)が出馬を表明しました。自民党内での公認候補の調整の末、坂本健氏が公認となり2005年の東京都議会議員選挙では坂本健氏が当選しました。
※河野ゆうき氏は区議を辞し、無所属で都議会議員選挙に出馬しましたが落選となりました。その後、2007年に自民党に復党し区議会議員(2期目)に当選しました。

こうした、候補者を巡る論議の中で田中晃三氏と坂本清氏の時代は一枚岩であった成増政治村の地盤にも揺らぎが生じました。

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あずまおさんは、帰国後に中国・山東省済南市にて浄水事業に関わりながら、神職の祖父に随行し全国の神社を訪問・参拝をする日々を送っていました。

成増政治村の混沌とした状況を見るなかで、自分がこれまで経験してきたこと、また、学んできたことを政治を通じて成増、東京都、日本のために役立てることで、お世話になってきた方への恩返しに繋がるのではないかと考え、2007年の板橋区区議会議員選挙にて出馬しました。当時28歳でした。

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出馬表明を幼少期からお世話になっていた田中晃三氏に伝えると「殊勝なことです。」と言われたそうです。

こうして、諸外国等で研鑽を積んできたあずまおさんが政治家としてのキャリアをスタートさせました。

■成増の伝統との戦い

あずまおさんが政治に携わろうとした背景の一つに「地域」についての考え方の多様化があります。

従前の成増政治村においては昔から農家を営む地主の方々が中心となる町会や神社という伝統的なコミュニティが地域の中心にありました。しかし、そうしたコミュニティには昭和以降に住み始めた人々は入り辛い雰囲気が少なからずありました。

成増という地域のことを考えた時に、伝統的なコミュニティだけではなく、新しく成増に住み始めた人々の声を取り込むことの必要性を強く感じていました。

加えて、当時の成増政治村のしきたりにも問題意識を持っていました。

こうした違和感を隠さずにあずまおさんは区議会議員としての活動をされた結果、一期目こそ「若いからしょうがない」と言われていた部分もありますが、当選回数を重ねるごとに「まだそんなことを言っているのか」とお叱りの言葉を受けることもあったそうです(こうしたお叱りのしわ寄せは家族にも及ぶことがあったそうで、奥様にはとても感謝されているそうです)。

しかし、そんな逆境にも屈せずに板橋区議会議員を四期務めあげられ、さらに四期目には区議長に就任し、名実ともに板橋区を代表する政治家となりました。

■政治にかける想い

〇根拠に基づく政策立案

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地域カルテ – 自由民主党 坂本東生(さかもとあずまお) (azumao.com)

あずまおさんの政治家として思考の出発点は土地にあります。

一口に板橋区といっても、その中には多様な土地があり、そうした土地に人々が住み、日々の生活が営まれています。こうした土地に根ざしたきめ細やかな政治を実現することがあずまおさんは必要だと考えています。

具体的には、板橋区には51の小学校(地理的に離れた天津わかしお学校を除く)があります。こうした51の小学校区ごとに町を調査し、人を調査し、土地を調査し、そうした情報を幾重にも地図に重ね合わせることで街の特徴がでてくる。地域ごとの課題や魅力を見える化した地域カルテを作成し、地域固有の特徴をとらまえた政策立案が求められていると感じています。こうした政治アプローチとしてあずまおさんは「地域カルテ」を作成しています。

〇自民党が変わる必要性


あずまおさんは自身の区議会議員の選挙だけではなく、自民党東京都連では数多くの都内大型選挙に遊説・IT広報担当として関わり、都連広報委員会副委員長を歴任した経緯もあり、自民党の都内の様々な選挙に参謀として携わられています。

そうした中で、選挙戦の戦い方(選挙戦略)が時代の変化についていけておらず、選挙の足かせとなってしまう場合もあるという問題意識を持っています。

特に東京は人口の流出入も大きく、自民党の伝統的な支持基盤である地域の有力者(町会や神社等の伝統的な地域コミュニティの中心にいる方々)のニーズだけをとらえるのではなく、「町会にも属さない分譲マンションに住む世帯」や「都心で働きワンルームマンションに住む若者世帯」といった多様な有権者のペルソナに対して有効な選挙戦略の立案が求められているように感じます。

そのため、有権者のニーズの把握、候補者の選定、選挙戦略の立案、支援者の確保といった選挙戦略を今の時代にあったものにアップデートする必要性があると言います。

実際、直近の統一地方選挙においても自民党は東京都内で大きく得票率を減らしている傾向にあります。特に、中央線沿線の新宿区、中野区、杉並区、武蔵野市等は東京に流入されてきた方が多く住む地域で自民党系首長の支持率が大きく減少しています。

選挙戦ではどれだけ地元を走り回って有権者の手を握るかといった所謂「どぶ板」に代表されるような根性論が今でも語られることがありますが、人の流出入が多い都市部の選挙においては根性論だけではなく有権者のニーズを的確にとらまえながら候補選定からマニフェスト作成まで戦略的に戦うことが「住民の声を聞く」こととして必須だと考えていますし、また、それができなければ自民党は有権者に選ばれなくなってしまうかもしれないという強い危機感をあずまおさんは持っているそうです。

〇板橋区の世代交代

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https://www.azumao.com/diary_archives/2419/

あずまおさんは板橋区の将来も楽観視できない状況だと感じています。

板橋区の東京全体の大きさと強さに隠れていますが、板橋区の人口減少は予測よりもはるかに早く始まっているそうです。担税世帯の流入減で区税収は下がり、独自財源確保はますます厳しく、国と都への依存度が増しています。感染症対策の特化によって削減された施策、特に心身の運動不足は様々な機能低下を今後もたらします。

こうした諸課題に鑑み、板橋区が豊かさから遠ざかり始めるのを一刻も早く食い止める必要性をあずまおさんは感じ、そして自ら先頭に立ち板橋区の「豊かな未来」のために区長への立候補を表明しました。

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しかし、結果として自民党内の公認候補選定の過程において最終的にはあずまおさんは党内の常任総務会の決選投票において公認されることはなく、坂本健氏(現職)が公認されることになりました。

対抗馬として、無所属の南雲区議が急遽立候補を表明しました。南雲議員はあずまお区議の公認がおりなかった状況を見て、今の区政を変えなければいけないという強い想いを感じ、立候補を決めたという事です(結果として、完全無所属を貫いた南雲候補は坂本健氏に敗れ、坂本健氏の5選が決まりました)。

【板橋区長選立候補予定者】一人一人の想いを”カタチ”にする新時代のリーダー「南雲由子さん」に小学生がインタビューさせてもらいました!(前編)|なりますチャンネル (note.com)

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区長選を巡る自民党内の出来事の中で坂本あずまお区議は16年間の政治生活に一区切りを打つことになりました。そして、あずまお氏は近藤タカヒロ氏(現板橋区議会議員)にバトンを渡し、区議としての生活を終えました。

最後に

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今回はあずまおさんの政治家としての原点や16年間の議員生活における想いに焦点を当てて記事を執筆させて頂きました。

幼少期に成増政治村での2人の板橋を代表する政治家との交流、青年期におけるトルコとマンチェスターでの8年間の留学、そして政治家としての16年間と本当にあずまおさんの人生はスケールが大きくドラマチックですらありました。

こうした貴重な経験や学識のある方が政治の檜舞台から退いてしまうことに、一成増市民としてもったいなさを感じた部分もありました。板橋区のことを最もよく知り、そして、最も真剣に考えたきた人物の1人であるあずまおさんが政治に携わらないことは板橋区政にとって大きな喪失ではないでしょうか。

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そんな個人的な想いから、インタビューにおいて「2025年には都議会議員選挙も控えていますし、2027年には区長選もあります。あずまおさんの政治家としての復帰はないのですか。」と、不躾な質問が口からこぼれてしまいました。

しかし、あずまおさんはすっきりとした表情で「全く考えていない。」とにこやかに答えました。落選した政治家は浪人と言われ、次の選挙を虎視眈々と狙うのが通常ですが、そんなそぶりはあずまおさんには見られませんでした。

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そうした姿を拝見し、あずまおさんは、政治家である前に1人の人間としての礎がしっかりしているように感じました。生来のご性格もあるかもしれませんが、諸外国での経験から「生きるということ」や「幸せということ」ということに関する価値基準が明確で、多少の人生の荒波には動じない胆力があるのかもしれません。そして、そうした礎の根本には、きっとあずまお(東生)さんの名前に込められた「東から日が昇り、明るくまぶしい太陽が降り注ぐような一日を過ごし、生きていく」というご両親から頂いたアイデンティティがあるようにも感じました。

現在、あずまおさんは、ご自身の政治にかける想いの一つである「根拠に基づく政策立案」を地方行政でも実現するために民間の政策シンクタンクを立ち上げる準備をされています。地方行政では、予算も人も足りないことからデータに基づく政策立案が遅れている印象があります。こうした現状を変えるために、(電通や博報堂等の大手に依頼するよりも)安価で地方行政の予算でも使える政策ツールを提供できる仕組みを作るのが今の目標とのことです。

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加えて、アズマップを通じて地域の政策課題の見えるかにも取り込んで行く予定とのことです。直近では、警視庁の事故発生マップをGISデータに変換し、マッピングして公開される予定です。様々な地域情報や地域課題をマップに積み重ねることで見えてくるものを政策ツールとして活用して貰うことを想定しているそうです。
※成増ヶ丘小学校のPTA会長も引き続き務めて下さっています。

あずまおさんは、こうした活動を通じて、ちょうどよい距離で引き続き政治との関わりあいを持つ予定とのことです(個人的には、そうした距離が少しずつ近づいてきて、いつの日か檜舞台に戻られることを勝手に祈念しております💦)。

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最後になりましたが、インタビューに応じて下さったあずまおさん、また、インタビューをコーディネートして下さった近藤タカヒロさん、どうもありがとうございました。改めて感謝いたします。

この記事を書いた人